2026/10/24 16:25

「結婚するかもしれないので、どこかのタイミングで彼氏を連れてくるね」
そんな言葉が家の前の庭で告げられたのは、夕刻のこと。妹からだった。
久しぶりに家族みんなでお出かけをした帰り際のことで、手土産を渡すかのようにさりげなく告げる妹に、まさかこのタイミングで、と両親は思ったことだろう。ちなみに私は、妹が恋人からの2回目のプロポーズを承諾したことを前々から耳にしていたので、それほど驚きはしなかった。
数年前からお付き合いをしている彼ら。妹はデートや喧嘩、同棲についてたくさん話をしてくれるけど、恋人を紹介してくれることはなかった。家族の誰にも会わせなかったのは、会わせてしまったらそのうち関係性の進展を望まれて結婚の話が浮上してしまうため。妹が懸念していたのはおそらくそこだったのだろう。20代後半の交際には「当然結婚前提のお付き合いだよね?」という暗黙の了解がついてまわるイメージがある。仕事や友人との関係性に日々の充実を感じている妹からしたら、自分の人生に変化をもたらすであろう結婚について慎重になるのは明らかで、周囲からの結婚に対する好奇心や関心を毛嫌いするのは当然だ。
「いつ結婚するの?とか、そんな関心が周囲から薄れていく30代がありがたい~!」とは、今年の春に30歳を迎えた時の妹の発言。それから数ヶ月して気づけばちゃっかり婚約していたので人の気持ちはアテにならない。とは、私の教訓。
なぜ本人がプロポーズを受ける気になったのか、真意や心境は知らなくてもいいと思って尋ねていない。
「式を挙げるならいつがいいの?」
結婚式場で勤めていた自分からすると、どうしても挙式の話は持ち出してしまいたくなる。妹は「うーん、おばあちゃんになった時でもいいかも」と結婚式のタイミングには重きを置いてないようだった。こんなにもマイペースなようでいて結婚式は絶対にしたいという強い希望があるのだから面白い。絶対にやりたいことが、早くできることが最良というわけではないらしい。
そんなこんなで、いつか両親へ婚約の話をするのだろうと思っていたところで冒頭へと戻る。ここからが本題。
婚約の話を聞いた両親は「そうなん」と小さく驚きながらも平静を装っていた。明らかに嬉しいはずなのに、それをあからさまに顔に出さまいとしていた。大袈裟に喜ぶわけでもなく、「顔合わせはいつにする?」と冷静に段取りを進めるわけでもない。ただ、目元と口元が柔らかくほころび、その嬉しそうな顔は夕焼けに照らされていた。それは「その報告を受けて私たちは幸せだよ」というニュアンスとは少し違った「どうか幸せでいてね」と我が子を愛する親ならではの嬉しさという表情だった。妹へ視線を送る両親の表情には二人からの「おめでとう」が優しく映る。
相手の幸せを願う時、人はあんなにも優しくて嬉しい顔つきができるのか。そんなことを思いながら、同時に私が感じたのは、夕焼け空のオレンジ色が優しく心に広がるような温かさ。なぜか、妹の婚約の話を聞いた時には感じられなかった嬉しさが、それを告げられた父と母の表情を目にした途端に込み上げてきた。両親の嬉しそうな顔が、どこまでも嬉しかった。
そして、このささやかな祝福を送る両親の表情は、今後、顔合わせでも結婚式でも目にすることはできないだろうな、とも直感した。
以前の職場では幸せな新郎新婦とその家族を目にしてきたし、写真を撮るようになってからは結婚式の現場で幸せな時間を収めたこともある。だからこそ現場から感じていたことは、これから家族として共に支え合います!という新郎新婦のメッセージとこれまでお世話になった周囲への感謝の気持ち。もちろんそこには眩しいほどの尊さが溢れていたし、新郎新婦の新しい門出を祝うきらびやかな時間があった。
けれど、その晴れやかで華やかな場に至るまでの、「結婚するかも」の発言にある家族になるかもしれない二人の絆への歩みに触れた時の、我が子を想う親の眼差しもまた尊さで彩られている。多くを語らなくても、その眼差しだけで愛しさを物語っている。もしかしたら私がこれまで出会ってきた人たちの中にも、こうしたささやかな祝福のひとときがあったのかもしれない。何にも飾られることのない素朴な“さいわい”に満ちたひとときが。
そう考えると、人生とは愛されることよりも愛することの方に本質があるのかも、なんてどこかの誰かの哲学書には既に書かれていることだろう。人生と大きな主語で語ってしまったが、日常的に使う道具、友人や恋人との関係、仕事との向き合い方などあらゆる場面において、相手や物事を大切に思えていたら、どのように愛されるかではなくどのようにそれらを愛するかに心がいくものだ。
私はこれまでの経験において「大切にされたい」といった焦った気持ちで物事と接してしまった過去がある。その動機は自分も周りも豊かにしなかった。必要だったのは、それらを大切にする自分自身の姿勢だった。でも、苦い経験をしたからこそ、結婚報告を受けた両親の眼差しが“愛する”なのだとこうして気づくことができている。裏表やエゴのない無条件な愛情。それは簡単に取り繕えるものではなく、両親が私たちを大切に育ててきてくれた証拠でもあった。
あの時の茜色に染まった父と母の表情。それはもう私の記憶以外のどこにも残っていない。写真に収めることのできなかった刹那を、私は後悔していない、なんてことはない。今回のエッセイにおいてこうして綴りながら、あの瞬間を撮るべきだったと小さく嘆いている自分がいる。でもきっと、これでいいのだ。三人の様子を通して親子の愛しさに触れたことは、写真を撮ること以上の意義があった。
この先、もしかしたら二人の婚約が破棄になるかもしれないし、結婚したとしてもそれが絶対的な幸せになり得るとは限らない。未来は不透明だ。それでも、両親の胸を満たしていたであろう喜びを隣で感じられたこと。かけがえのない小さな祝福の瞬間に出会わせてもらったこと。それらの価値はなくならない。だからこそ、素朴な“さいわい”という景色を届けてくれた妹に感謝している。私たちの心には、確かに陽だまりのような豊かさがたゆたっていた。